【 概 要 】−大谷吉継の出生は諸説あり不詳、大名家やその家臣などに有力な大谷姓がない事から比較的身分の低い家の出身だったと推定されています。吉継は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の御馬廻り衆となり秀吉の中国侵攻に従軍し、天正10年(1582)の本能寺の変の後に発生した織田信長の後継者争いである天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家の敗北を決定付ける柴田勝豊の調略を成功させ三振の太刀と賞されました。天正13年(1585)に紀州侵攻では杉本荒法師を討ち取る大功を上げ従五位下刑部少輔に叙任され、「大谷刑部」と呼ばれるようになっています。この頃になると後に盟友となる石田三成と行動を共にするようになり、秀吉の有馬温泉の湯治や九州征伐、三成の兵站奉行就任などに随行しています。
一連の功績から大谷吉継は天正17年(1589)に敦賀城(福井県敦賀市)の城主2万石余に抜擢され、天正18年(1590)の小田原の役、その後の奥州仕置き、の功により2万7千石が加増、さらに、太閤検地の功で3千石が追加され合計5万石の領主に昇進しています。敦賀は日本海海運の重要拠点の1つで吉継は敦賀城や城下町の整備と共に、海運を担う道川家や川舟家、高嶋屋など廻船問屋を庇護し物流の拠点として大きく発展させました。
大谷吉継は秀吉の伏見城築城でも大きな役割を持ち、良材である秋田杉を秋田氏(安東氏)を通じて敦賀や小浜に運ばせ、ここから陸路や琵琶湖を利用して京都まで運搬させました。慶長5年(1600)に行われた関ヶ原の戦いは盟友となった石田三成と共に西軍を結成、徳川家に転じた前田利長の牽制に成功し前田家本隊を関ヶ原に寄せ付けさせませんでした。本戦では小早川秀秋の裏切りからそれに同調した脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱に側面を突かれ総崩れとなり自刃に追い込まれています。
永賞寺(福井県敦賀市)は天正19年(1591)に大谷吉継により現在地に遷され天台宗から曹洞宗の寺院に改宗開山した寺院です。大谷吉継が関ヶ原の戦いで敗れ自刃した後の慶長14年(1609)に吉継のものと伝わる供養塔(九重石搭)が建立され敦賀市指定文化財に指定されています。崇敬社だった八幡神社には本殿の龍の彫刻、大鳥居、石灯籠を寄進し、永建寺には寺領の寄進と禁制の発布を行っています。
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