【 概 要 】−多田満仲は経基流清和源氏の初代である源経基嫡男で摂津国多田を領した事から地名に因み多田氏を称し多田源氏の祖となってます。満仲は摂津国(大阪府北中部から兵庫県南東部)、越前国(福井県嶺北地方)、武蔵国(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)、伊予国(愛媛県)、美濃国(岐阜県南部)、下野国(栃木県)、陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)などの国守を歴任すると同時に、左馬権頭や治部大輔、鎮守府将軍などの役職にも就任し当時の藤原政権で大きな役割を果たしました。政敵が多く、度々自邸が襲撃され多くの被害を受けています。長徳3年(997)に死去、遺骸は多田院(兵庫県川西市多田院多田所町:現在の多田神社)に葬られています。
多田満仲と若狭国との関係は不詳ですが多田寺(福井県小浜市)は満仲の祈願所だったとされ本堂には持仏と伝わる仏像が安置され、境内には満仲のものと伝わる墓碑が建立されています。
若狭国遠敷郡多田を発祥とした若狭多田氏が存在した事から、個人的な見解としては多田寺は若狭多田氏と関係が深い寺院だったものが、時代が下ると著名な満仲と関係を強調したのかも知れません。若狭多田氏は遠敷郡の在庁官人(平安中期から鎌倉期に、国衙行政の実務に従事した地方官僚の総称)で若狭国一宮の若狭彦神社(福井県小浜市龍前)と二宮の若狭姫神社(福井県小浜市遠敷)の神官を歴任した牟久氏との関係が深く婚姻関係を結ぶ事で御互いの地位を確立していました。
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