【 概 要 】−松平忠昌は慶長2年(1598)に結城秀康と清涼院(中川一元の娘)との子供として生まれました。慶長12年(1607)に初代将軍徳川家康の側室である英勝院の猶子となり2代将軍徳川秀忠の近くで養育されるようになり姉ヶ崎藩(現在の千葉県市原市姉崎)1万石の藩主に就任しています。慶長20年(1615)に発生した大坂夏の陣に参陣し兄である松平忠直に従軍し功績を挙げ、下妻藩(茨城県下妻市)3万石に加増、さらに元和2年(1616)に松代藩(長野県長野市松代町)12万石、元和4年(1618)に高田藩(新潟県上越市)25万石に加増されています。
元和9年(1623)、兄で福井藩2代藩主松平忠直が不行跡により強制隠居させられ配流処分になると、福井藩は事実上兄弟と有力家臣に分割され、結城秀康の次男である松平忠昌は福井藩50万5千石、大野藩(大野城)5万石には秀康の3男松平直政、勝山藩(勝山城)3万石には秀康の5男松平直基、木本藩2万5千石には木本藩には秀康の6男松平直良、丸岡藩(丸岡城)4万6千石には附家老の本多成重がそれぞれ配されています(松平忠直の嫡子である仙千代は高田藩26万石、忠昌の附家老となった府中松平家には4万2千石)。
忠昌は縁起が悪い事から地名を北ノ庄から福居(福が居る※後の福井)に改称(藩庁も北ノ庄城から福井城に改称)、家臣や領民に対して掟書を発布、武術に長けたものを集め武芸十二法を発布、街道の宿場町には伝馬定を発布しています。寛永7年(1630)に家臣、領民に対し宗門改めを行い、同年には五人組制度を整備、寛永14年(1637)には旧領2万石が加増されています。寛永20年(1643)には三国湊と滝谷出村の堺に口留番所を設置し、三国湊には異国船改めが出来るように番所を設置しています。新田開発も積極的に行い吉田郡北野新田では1175石が新たに生み出されています。正保2年(1645)死去、戒名:隆芳院殿郭翁貞真大居士、大安禅寺と永平寺に墓碑が建立されています。家督は松平光通が継いでいます。
松平忠昌は福井藩時代に社寺の保護も行い、寛永元年(1624)には東光寺に福井城下に寺地を寄進、同年には大湊神社に社領を安堵、寛永3年(1626)には平泉寺白山神社(福井県勝山市)に社領100石を寄進、寛永4年(1627)には新羅神社(福井県南越前町)の社殿を改築、寛永5年(1628)には東照社を勧請し寛永6年(1629)に300石を寄進、寛永6年(1629)には平泉寺白山神社拝殿に絵馬(繋馬図:勝山市指定有形文化財)を奉納、寛永12年(1635)には杉杜白髭神社に鏡一面、剣一振を寄進、龍泉寺(福井県越前市)には寺領13石を安堵しています。忠昌は永平寺(福井県永平寺町)を篤く帰依し境内には忠昌の五輪塔、慶寿院(忠昌継室)の五輪塔、忠昌の死去に伴い殉死した家臣の石塔(7基)が建立されています。
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