・鰐淵城が何時頃築かれたのかは判りませんが、戦国時代には越前国守護職朝倉家の重臣だった鰐淵将監吉広が居館として利用していたとされます。
吉広は元亀元年に発生した姉川の戦いの際、桜井新左衛門700騎と共に300余騎を率いて敦賀郡杉津口に向かっており有力な家臣だった事が窺えます。
元亀2年に発生した小谷城の戦いでは城主の浅井家の援軍として吉広は小谷城に入り織田勢と交戦、比叡山延暦寺から戦勝の護符を賜り、御礼の書状が残されています。
織田信長の越前侵攻が本格化すると朝倉家の一族や有力家臣が次々と離反し瓦解寸前でしたが、吉広は最後まで朝倉義景に従っています。
天正元年に発生した刀根坂の戦いに参陣したものの、敗北、朝倉軍は3千人の死傷者が出た中、さらに撤退戦である疋檀城の戦いでも激しく攻め立てられ敗北、この戦いで吉広と嫡男も討死して果てています。
その後、吉広の孫が丸岡城の城主青山宗勝、曾孫が福井藩の藩士として存続したそうです。
鰐渕城は舟運の大動脈だった九頭竜川と鮎街道沿いの要衝の地に設けられた単郭の平城で、周囲を深い水堀と土塁で囲っていたとされます。
現在は宅地化と圃場整備の為、目立った遺構は失われていますが、段差等が当時の雰囲気を伝えています。
福井県:城郭・再生リスト
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