・金剛院城は文禄元年に府中城に10万石で入封した青木一矩が府中城の支城として築城し、子供、又は甥とされる青木俊矩を配したとされます。
一矩は豊臣秀吉の従兄弟という関係だった事から、俊矩も秀吉から重用され天正20年に行われた文禄の役では馬廻衆の1人として九州に赴き肥前名護屋城の在番を担っています。
慶長3年に秀吉の死に際して、長光の刀を受領し、慶長4年には豊臣秀頼に伺候し2万石に加増されています。
慶長5に発生した関ヶ原の戦いでは一矩と共に西軍に与し、北国街道から進軍してくる東軍に対していましたが、東軍に与した加賀前田軍が大谷吉継の陽動作戦により自領に引き上げた為、戦う事なく終戦を迎えています。
青木家は改易となり、俊矩は前田家に預けられ、慶長13年に金沢で死去しています。
金剛院城も廃城になったようで、慶長15年に当時の府中領主である本多富正は城跡に金剛院を遷しています。
一方、金剛院城は一矩の居館だったとも云われ、慶長4年に北ノ庄城に遷った際に廃城になったとの説もあります。
金剛院は永享5年に玉翁正光禅師が開山した曹洞宗の寺院で、当初は平出村に境内を構え、安泰寺と号していましたが、天正元年に織田信長の兵火により衰微しました。
その後、丹生郡八田村で再興しましたが、天正11年に青木一矩(重治)の帰依を受け、旧地に境内を戻し、堂宇の再建が行われています。
現在も、本堂西の墓地の西側に土塁が残され往時が偲ばれます。
福井県:城郭・再生リスト
|